甲子園の応援と井上和香の唇
はすごいなぁ。
北朝鮮の美女軍団みたいに、みんながピッチリしすぎるのは俺にはちょっと堅苦しいな。
アメリカの野球観戦みたいな、一人一人が楽しむっていうのも俺は嫌いじゃないけど、
やっぱり、
甲子園の応援とか、サッカー日本代表の応援とか、ああいう「まとまり」があるのって好きやな。
それに、別にその「まとまり」に入らなくてもかまわない、ってところがまたいい。
応援しなかったからって怒られへんもんなぁ。
ほんまにものすごい良いと思うわ。
と言いながら、俺はテレビ観戦専門やけど。
本物は小さくて見えへん。

↓どうでもいい話
日本は欧米に比べて「まとまり」が大事らしい。
特に田舎なんかやと、新しく引っ越してきた人は「よそ者」とか言うし、
小中学校なんかでちょっとみんなと違ってたりすると生意気やといじめられるし。
悪い部分があるということは良い部分もあって、
「うち」の人が困ってたらみんなで助けよう、ってなる。
みんなで助けるってことはものすごいことやな。
「まとまり」に限らず、どんなことでもだいたい、良い部分と悪い部分があるやんなぁ。
このごろ自己責任という言葉が出てきた。
「自衛隊は撤退した方がいい」と政府の考えと違うことを言うのは「よそ者」だ、
という考えと、
日本の国民なんやから「うち」の人間だ、
という考えがある、ような、そうでないような、よくわからん。
よくわからんけど、自己責任と言ってるうちの多くは、
「まとまり」を守るために「よそ者」を攻撃してるだけで、
それはいじめと同じ構造という気がしないでもない、
ような、そうでないような、分からん。
「まとまり」の良さと、「ばらばら」の良さ(については書いてないけど)、
いいとこだけをうまく取り入れよう、などといううまい話は、、ないか。
けど、「まとまり」があって、そこから出ても、それはそれで認められる、
(別の、もっと大きく深い「まとまり」に入ってる)
そんな甲子園の応援みたいなの?が俺は好き、とわかった。
ああだこうだ言ったけど結局、
唇を見たり、胸を見たり、お尻を見たり、足を見たり、バラバラに見るのはそれはそれでいい、
けど「まとまり」として見るのもまたいい。
そこで、この身体にしては貧乳とか、この胴にしては足が太いとか、この顔にしては唇が厚い井上和香みたいとか、
そういうのを排除せず、それはそれで一つの身体の「まとまりの一部」として認めることが、
俺は好きということや。