デジカメで写真を撮ろうとしたら、メモリーカードが入ってないという事が、最近よくある。
「死は悲しいか?」という話が面白かった。
タテマエとしてでも「死は悲しい」としておく事が大切なんじゃないかなぁ、と書いてた。
人は死んだら、死んだ本人の意思がなくなる。
けど、まわりの人の思い出には残って、それが「たましい」やろう。
死んでなくても、例えば、意識がなくて延命治療を受けてる人がいたら、
その人の意思はなくても、そのまわりの人の意思がある。
それは、「たましい」と同じようなもんやろう。
(意思がないと思い込んでるだけで、ほんとはあるかもしれないけどなぁ。)
今日新聞で読んだけど、7割の人は、自分は長いこと延命治療を受けたくないらしい。
けど、自分の家族とか、自分以外の人の延命治療をやめる、とはなかなか言いにくいようや。
そんなような事からなんとなく、「たましい」がドーナツみたいになってるような感じがした。
だからなんやというと、別になんにもないけど。(・_・ゞ-☆

そういえば、後悔も「たましい」と同じようなもんかなぁ。と思う。
後悔する気持ちはたくさんあっても、やってしまった事そのものはもうなくて、
ドーナツみたいなもんやと思う。
後悔ってドーナツかぁ、と思うと、、、後悔はドーナツやなと思う。(・_・)?そのままかぁ
ほんとの事は、言うのがいいのか、そうでないのか、どっちやろう。内容にもよるけど。
ほんの一言で、人生とかが変わるものか、そうでないのか、どっちやろう。内容にもよるけど。
本をたくさん読むのと、パソコンの画面を長く見るのと、どっちが目に悪いんやろう。(・_・)?

何かが嫌になったときに、
「小説の世界に逃げ込んで忘れよう」
と思って小説を読みだしたら、
「小説の中でも現実の世界と同じ嫌な事が出てきて、忘れようとした嫌なことを思い出した」
とか思って小説を読んでると、
「小説の中の他人事として嫌なことを読んでたら、自分の嫌なことも他人事のような気がした」
というような事が、あるかもしれないし、ないかもしれない、と思った。
入浴とか森林浴とかと同じように、「景色浴」はいいなぁ、と夕日を見ながら思った。
「夕日の景色浴」は、夕日の穏やかな光の強度と波長が脳に良い影響を与える(のかどうか知らんけど)とか、
森林浴は、マイナスイオンが体に良い(のかどうか知らんけど)とか、
何か光やらイオンやらの、モノのおかげで自分はとても気持ち良い、というんじゃなくて、
ただ景色に浸るような感じ、と思い込むと、なんとなく良い気がする。
たとえば、城は、ただ古くて大きいだけの建物といえば、まぁそうなんやけど、
でも「城の景色浴」と思って見れば、なんとなく体に良い気がする。
そんな感じで、「音楽浴」とか、「運動浴」とか、「読書浴」とか、「ゲーム浴」とか、「ネット浴」とか、何でもかんでも「○○浴」と思い込めば、体に良い気がする。(・_・)?


今日は、「ゆずる力」という話を聞いた。
ものごとを良い方向に変えた人はえらい。
そのときに、今までどおりの方が得する人もいるのに、それを譲る人もえらい。
みたいな話で、なるほどなぁと思った。
そういえば、
1970年の万博は「人類の進歩と調和」という、未来志向のテーマで、未来的な大きな屋根を作ろうとしてた。
なのに岡本太郎は、その未来的な屋根を突き破る、原始的な生命力のシンボル(?みたいな感じ)の「太陽の塔」を、建てると言って、建った。
万博のテーマと屋根をつきやぶった岡本太郎はすごいし、
そのときに、「進歩」というテーマをゆずって、太陽の塔をOKした人たちもすごいなぁ。


実際は、小泉改革は小泉首相一人がやったんじゃないのと同じように、おじさん一人が飛行機を動かしてるわけじゃないけどなぁ。(・_・ゞ-☆小泉首相の話は関係ないか