恋愛と国を愛する心と言葉の難しさの話 長い
形の無いもの
と新聞に書いてあった。
国を愛する心って何やろうな?
前に、ゆとり教育ってあって、授業の時間とか勉強する内容を減らしていった。
そしたら、こどもの学力が低下して、ワーワー騒いで、ゆとり教育はやめになった。
ってことがあったなぁ。
時間と内容減らしたんやから、頭に入る量も減るのは当たり前や。
ゆとり教育って、例えば、心のゆとりを増やす教育、って意味ならきっと良かったんやろうなぁ。
でも、心のゆとり、なんていう、形の無いものを増やすのはそう簡単にできることじゃない。
だから、数や量として測れる、時間や内容のゆとりを増やす教育、になったんかな。
せっかくの「ゆとり教育」も、その「ゆとり」って何なのかがよく分からないまま (・o・)ノ賛成 って言って進めていったのがあかんかったんちゃうかなと思う。
それで今、国を愛する心、って何やろうな?
これも形の無いものやけど。
国を愛する心はおいといて、人を愛する心も難しいもんやなぁ。
家族とか友達とかは別にして、俺を愛してくれる心がどっかに転がってないかなぁ。( ̄ヘ ̄;)
\(`o'”)そんな、道に落ちてるものを拾うような意識じゃいかん。
でも、なんとしてでも手に入れよう、とは思ってなくて、やっぱり、落ちてたら拾いたい、ぐらいで、心にゆとりがあるんかなぁ。
ゆとり教育の成果が出たなぁ。(・_・ゞ-☆
言葉の共有
前に本で「たのくるしい」という言葉を読んだのがすごい面白かったことがあった。
例えば勉強って、やればやるほど楽しいけど、苦しくもあるって事がよくあるみたいやなぁ。俺はそこまでやってないけど。
恋愛とか人間関係でもそうなんかな。
薄い関係やったら、苦しみが少ないけど、楽しさもほどほどや。深い関係やったら、ものすごい楽しいけど、そのぶん苦しみもたくさんあるやろう。
楽しくもあるし苦しくもある、たのくるしいものは、俺は単に「面白い」と言うなぁ。
けど、みんながそういう使い方をしてるわけじゃないみたいや。
俺が、「それは面白いなぁ」と言うと、
「面白いだけじゃない、苦しいんだ!」とか、
「面白いだなんて、そんな甘っちょろいもんじゃないぞ!」とか、たまに怒られることもある。(・_・ゞ-☆
たのくるしいの話を先に聞いてると、俺が面白いと言ってる意味が分かるけど、いきなり面白いと言うとあかんみたいや。
こういうふうに、言葉の使い方の違いですれ違うって事はよくあるやんなぁ。
ゆとり教育もそうかもしれないな。
ゆとり教育に賛成(・o・)ノって言った人の中には、
「ゆとりって、そういうつもりじゃなかったのに。。」
って人もいたかもしれないな。
そしたら、言葉をキッチリ定義しとくとそういうすれ違いはないやろうけど、なかなかそういうわけにはいかないなぁ。
日常会話でいちいち、
「今愛してるといったけど、君は愛という言葉をどう定義して使ってる?単に好きなのを愛と言ってるのか、それとも、、」
とか言ったらもう愛されないんちゃうか。(・_・ゞ-☆
定義をキッチリするのは、すれ違いをなくす一つの方法やろうけど、もう一つ、話の流れで言葉の意味を共有するってこともあるやろう。
さっき「たのくるしい」ことは「面白い」、という話をしたけど、その話の流れがあれば俺が使う「面白い」って言葉を共有できる。
そんなわけで、国を愛する心っていう言葉も、何か文脈の中でこういう意味なんだと分かるようにしてほしいな。
それが、国民みんなに理解してもらうにはいい方法やと思うわ。
それをしても、多分俺は読むのめんどくさいから読まないけど。
それにしても、大して好きでもないのに好きと色んな人に言っておいて、一番良さそうな人が手に入りそうになると、キープしておいたその他の人たちが迫ってきても「好きって言ったけど、そういう意味で好きじゃない」などと言うのは、男心をもてあそびやがって!という感じやんなぁ。
でも個人個人にとって好きって言葉の意味が違うんやから、しょうがないことやんな。
たくさん接して文脈の中でその人の「好き」の意味を汲み取らなかった男のほうもあかんかったということやな。
俺にはよく分からん話やけど。(・_・ゞ-☆